個性を殺さない

こんにちは。竹村です。

以前ご紹介したピーターフランクルさんという学者さんの
書かれた本にこんなシーンが紹介されていました。

フランクルさんが青森県で講演をした際に、講演後のパーティーである人に
「よく日本人は発想力がないといわれるのですが、
発想力をつけるにはどんな教育をすればよいのでしょうか?」
とたずねられます。突然の質問に戸惑いつつ、フランクルさんが
その場で出した答えは
「発想力をつけるなんて大きなことを目指さなくても良い。
発想力を殺さない教育を目指せば良い。」
というものだったそうです。

アドリブで答えた内容にしては
とても満足していると書かれていました。

頭のいい人はとっさでも的確なことが言えるものだなあ、
とちょっと感心したのを覚えています。

さて、このフランクルさんの考え方ですが何も発想力に限らずとも
いわゆる個性一般に通ずるものでないかと思いました。

よく、個性を伸ばす教育、という表現を聞くのですが、
ひとりひとり違うはずの個性を複数の人間を対象とした授業で
のばすというのはなんだかひどく矛盾して聞こえます。

大事なのは無理矢理他人と違うことをみつけて強化しようとすることではなくて、
その子個人の優れたところをみつけたらつぶさないようにすることでは
ないでしょうか。

先日、低学年の基礎的な事項の習得を扱う授業の後で
「授業で配られた問題集は、どこまで進めて良いのか」
という質問をいただきました。

その時にもお答えしたのですが、正直に言ってしまえば
「もしも楽しく進められるなら、どこまで進めてしまってもかまわない」
と思います。

「どこまでやっておかなければならないか」
ということであれば、「ここまではできていなければまずい。」
というのははっきりと下限を用意する必要があります。

しかし、せっかくその子に意思も能力も備わっているのなら
上限を用意する必要はないと思います。

「授業についていくために勉強しなければならない」ならともかく
「授業にあわせるために勉強できない」では本末転倒です。

もしそれで授業中やることが減ってしまったら、
せっかくの少人数授業なのだから個別に特別課題を追加しても良いし、
もしも長期的にそれが続いて明らかに授業のレベルがあっていないようなら、
一学年上のクラスに進んでしまっても良いと思います。

悪いところは矯める、それ以上に良いところは矯めないよう気をつける、
基本的にはそれだけで「個性的な人間」は自然と出来上がると思っています。