歴史が変わる瞬間

こんにちは。竹村です。

昨日選挙に行ったときは、まさかあんな結果に
なるとは思いもしませんでした。
2009年(の8月30日)は時事問題の域にとどまらず、
未来の子供たちが等しく暗記しなければ
いけない事柄になりそうな気がします。
「日本の政治のあり方に大きな変化をもたらした」
といったような記述がなされるのでしょう。

ただ、9月11日(同時多発テロ)の事件のときも
感じたのですが、意外と「歴史的事件」を
リアルタイムで体験していても、少なくとも
その瞬間は驚くほど日常に変化がないように思います。
少なくとも今日の竹村の一日はいつもとまったく
変わらないリズムで過ぎましたし、会話のとき以外は
選挙結果なんてけろりと忘れていました。

それでも、たぶん今日という日よりあとに生まれた
子供たちは、歴史書に「日本全体に大きな衝撃が走った」
といったような表現があれば、きっとものすごく
ドラマチックな出来事に違いない、と想像してしまうの
ではないでしょうか。ちょうど私たちが太平洋戦争以前
の歴史に対して様々な強いイメージを抱いてしまうのと
同じように。

そんなことを考えて、最近は歴史に関する情報に
触れるときは、常に「意外と普段どおりに過ごして
いた人もいたはずだ」「無関心なままに時代が過ぎて
いってしまった人もいたはずだ」
ということを意識して読むようにしています。
世界恐慌だってフランス革命だって、中には
「近頃だんなが難しい顔してることがおおいけど、
どうしたのかね」とか
「ああ、なんか最近パリの方が大変なことに
なってるみたいだねえ」なんて
程度の認識しかなかった人々もたくさんいたのでは
ないでしょうか。

歴史として語られる段となるとどうしても「衝撃」
「狂気」「歓喜」「悲劇」「勝利」「樹立」…
といったようねドラマティックな側面ばかり強調されて、
「うっかり」「なんとなく」「気がついたら」
「失念していた」といったような格好悪い部分が
見えなくなってしまう気がします。

もしも、あと何十年もたって自分の孫に「ねえねえ、
学校の宿題でレポートをまとめる事になっているんだけど
おじいちゃんあの事件の時どう思ったの?」なんて
聞かれたることがあったら、「ちょっとすずしくなって
きたから、久しぶりに湯船にお湯をはるかシャワーだけで
すましちゃうか悩んでたねえ。」なんて答えてみようか
と考えています。

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