久々に三国志のお話でも

こんにちは広田です。
久しぶりに三国志のお話をしたいと思います。

今回はまだ紹介していなかった武将、呉の大都督の呂蒙(子明
)です。
個人的には、結構お気に入りの武将です。
ちょっと前に話題になった「レッドクリフ」にも出ているので
しょうか?
史実では呂蒙も赤壁の戦いに参戦しているのですが、どうでし
ょうか。

さて、さっそく呂蒙の説明に入りましょう。
彼は親族の縁もあり、若いころから孫策に用いられ、側近を務
めていました。
その頃は腕っ節ばかりで、教養とは無縁と言っていいほどでし
た。
それでも数々の戦いで功績を挙げ、荊州(呉と蜀がこの地を何
度も巡り争いました)をめぐる一連の戦では、
常に大将に任命されるなど輝かしい戦果を残しています。

あるとき、主君の孫権や周瑜に教養の大切さを諭されて勉学に
励むようになり、
結果としてそこらの儒学者にも勝る学問を身につけたといわれ
ています。

そして呂蒙関係で故事成語が2つあります。
2つも後世に残しているのは、すごいことだと思います。

「呉下の阿蒙に非ず」
「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」

というものなのですが、まず一つ目で
「呉下の阿蒙に非ず」というのは「呉にいた頃の蒙ちゃんでは
ない」という意味で、【阿】は、「~ちゃん」というニュアン
スです。
これを言ったのは魯粛という周瑜の後任者で、軍司、政治に優
れた人物です。

魯粛は荊州を担当していて後任に呂蒙が選ばれ、久しぶりに会
った呂蒙に色々と質問したら、
ぺらぺらと答えを言う呂蒙の姿をみて、さきほどの言葉を言わ
れたそうです。

それに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待す
べし」
(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わ
っているということ。転じて、いつまでも同じ先入観で物事を
見ずに常に新しいものとして見よという意味)と言ったそうで
す。
日本では「男子三日会わざれば刮目して見よ」という言葉があ
りますが、呂蒙の言葉を元になっています。すごいですね。

そして、呂蒙の一番の手柄といえば、やはり「関羽」を捕えた
ことでしょう。
あの劉備の義兄弟の「関羽」です。
細かく言うならば実際に呂蒙が捕えたわけでなく、その作戦の
総司令が呂蒙だったわけですが。
三国志史上、最強の武人と謳われた関羽を捕えたということで
彼の名声は三国に広まりました。

しかし呂蒙は関羽を捕えたのち、しばらくし病死してしまいま
す。
享年42歳でした。

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