国民性

一時期涼しかったのに、なんだかまた蒸し暑くなってきましたね。
竹村です。

突然なのですが、竹村はよく外国に行くと韓国人と間違えられます。
例えば、飛行機の中で「コーヒーいかがですかー?」と日本語で
給仕をしながら歩いてくるスチュワーデスさんが竹村の前に来ると
いきなり韓国語になってしまったり、日本人の知り合いから「最初
韓国人だと思ってたから話しかけられなかったんだ」というカミングアウト
を受けたり、そういったことが過去限りないくらいありました。

日本人と韓国人の外見にどれくらいの差があるのかほとんど分からないのですが、
どうやら竹村は韓国人の外見をしているようです。韓国人の友人達も
口をそろえてそういうので間違いないと思います。

ちなみに竹村は韓国料理が大好物で、普通の韓国の方に負けないくらい
辛いものをぱくぱく食べることが出来ます。

でもそれならどうして自分は「韓国人」ではなく「日本人」なんだろう、
と考えるとやっぱり一番おおきいのは言葉ではないかと思います。
他の方から見た定義ではなくて、自分で自分を「日本人」と定義してしまう
一番大きな理由は、自分の意識の中核をなす言語が「日本語」であるから
なのだろうと。

日本語の一番大きな特徴は、擬音語や擬態語の豊富さであると思います。
例えば「つるつる」とか、「ふわふわ」とか、「さらさら」とか。

韓国語は未だきちんと勉強したことがないので分かりませんが、
少なくともヨーロッパ圏の言語に
「ふわふわと漂う雲を割り箸にさして、はむっとかぶりついて
みたらきっとおいしいだろうなあ」
といった文の語感を損なわずに訳すことって難しいと思います。

ナショナリズムが高揚するような時代には、その民族がいかに特別
であるかということに仰々しい理由付けがなされることが多いけれど、
国民性というものは意外とそういったさりげない部分にやどって
いるものなのではないでしょうか。

少し思いつくままに筆に任せて書いてみました。
最近は、せっかくだからいつか韓国語も勉強してやろうともくろんでいます。