次善策こそ

ここ数年、8月のNHK特集では終戦に際しての様々な会議の資料が出てきて「決められなかった」という事実の検証が行われていますね。
正しいと分かっているけれど「決められない」というのは、かなり掘り下げられるべきテーマだと思います。
組織で、そして個人でも「こうだったら万々歳」という方針を決めるのは実はそんなに大変ではありません。
しかし、その第一の方針がだめになったときの次善策についてはそうは行きません。
(1)第一の方針がだめになったということを認めたくない
(2)次善策を考えるなんて縁起が悪い
(3)次善策策定に関して前提が統一されていない。もしくは確認したことがない。
(1)(2)については、個人の宗教的な思考傾向によるものなのでなかなか高いハードルです。結局大けがにつながるのですが、大けがするまで認めないのです。小さな頃の教育がものをいうと言われていますが、幼稚園の先生も小学校の先生も口を揃えて「自分の前に来たときにはすでにその傾向が強くあった」と話しますからどこからどのような指導をすればというのは難しいテーマです。
(3)は(1)(2)に通じますが、すぐに個人のポリシー同士のぶつかり合いになるので、難しいですね。例えば、 塾であるクラスの授業についていけないということが判明したとしましょう。ついていけるというのは理想ですが、そうではなかったので次の策を考えなくてはいけません。
ではクラスをより簡単な方に変更するか。実はそうは至らないことがあります。
・塾には自分の学力を高めるために来ている
のではなく、
・塾には自分の学力が高いということを確認するために来ている
という前提を持っている場合です。
多くの場合、ご自身がこのような前提を持っているということには気づいていません。第一の策がだめになったときに初めて表に出てくるものです。私は、後者の前提が悪いとは思いません。しかし、私の提供するサービスとは相容れないのでこの前提でサービスを要求されてもご期待に沿うことはできません。勉強に限らず、ほとんどのプロジェクトにおいて第一の理想がそのまま達成されることはありません。ほとんど必ずといっていいほど訪れる第一の策がだめになる瞬間に、自分は、自分の仲間は、相手はどのような信念でどのような行動をとるのかを確認しておくことは大切だと思います。そうでないと想定しうる最悪の状態にすぐに陥ります。
「Bad case は?」
この質問に立ち向かう気持ちの強さと想像力。論理的な思考力に加えて身につけさせたいです。

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