どのくらい?どんなとき?

こんにちは。竹村です。
物事を考えるときに「どうして?」
と「だから?」を考えていくことは、
繰り返し言う必要のないくらい重要です。

ただ、他にもいくつか気をつけるべきことが
あると思っています。
特に、個人的にいつも考えるように心がけようと
思っているのは「どのくらい?」「どんなとき?」
という観点です。

「お金は大切だ」
-どのくらい?どんなとき?
「本当に大切なものはお金では買えない」
-どのくらい?どんなとき?
「努力は才能に勝る」
-どのくらい?どんなとき?
「結局才能のあるやつには勝てない」
-どのくらい?どんなとき?
「人間は中身が重要だ」
-どのくらい?どんなとき?
「外見は大事だ」
-どのくらい?どんなとき?
「規則正しい生活が大事だ」
-どのくらい?どんなとき?
「アメリカ合衆国は強大な国だ」
-どのくらい?どんなとき?
「日本には資源が乏しい」
-どのくらい?どんなとき?
「一般相対性理論でも説明できない事柄がある」
-どのくらい?どんなとき?
「地球環境を守らなければならない」
-どのくらい?どんなとき?

抽象的なものから具体的なものまで大抵の主張に
(やや強引ではありますが)投げかけることの
できる疑問だと思います。

一応論理の構成はあっても、
「この人なんか議論が中に浮いていて説得力がないなあ。」
と思う人は、大抵この視点が抜けています。

例えば、携帯電話の普及期に
「中高生が携帯電話を持つようになると、
コミニュケーションが希薄になる。
なぜなら、面と向かっての対話を必要と
しないメールや電話では、本当の感情の
ぶつけあいが起こらないからだ。」
などと懸念するようなコラムなどを
みたことがあります。

でも、(前提の不思議さを脇においても)中高生が
携帯電話をどんなときにどのくらい使うかと考えてみれば、
学校にいる間にメールや電話でコミュニケーションを
とるはずはないし、
電話代を両親に払ってもらっていれば自然と使用できる頻度
に上限があるはずだし、
おかしい論理なのは一目瞭然だと思います。
実際、数年後の新聞で「中高生のほとんどは
メールをやりとりした相手と翌日か翌々日の内に会話を
交わしている」という記事を目にしました。

ちなみに、こういった視点を持っているかどうか
ということと「教養があるかどうか」といったことには
あまり関係がないように思います。
いわゆる「教養がある人」の中にも
そういった視点のない人が結構います。

知識の量は多ければ多いほど良いですが、
ともすればそれに振り回されてしまいます。
見聞きした知識をやみくもに信じるだけではなく、
常に自分の中できちんと噛み砕いて
消化していくよう心がけて欲しいと思います。

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