PROFILE & INTERVIEW
野村 竜一 -Nomura Ryuichi-
(事務局長・共同代表)
千葉県出身。東京大学理科Ⅱ類入学、教養学部卒。大学在学時米国へ交換留学。NHK、通信会社、コンサルティング会社戦略部門を経てロジム設立。共同代表者。著書(共著)『頭のいい子が育つロジカルシンキングの習慣(中経出版)』。

出身地 | 品川⇒横浜(小学校)⇒千葉(中学高校)⇒東京(大学以降) |
最近読んだ好きな本 | |
小学生に読んでほしい本 | 「オオカミ王ロボ」「伝記 源義経」「ドランゴンボール」 自分が小学生の時に読んで強烈に印象に残ったので。どの本というのはありませんが、本はたくさん読んで欲しいです。本を読むことで人の1年間は730日にも1000日にもなると思います。 |
見に行ってほしいオススメの場所 | 日本語が通じないところや、日々の習慣が現在と異なるところならどこでも。 |
尊敬する人物 | 高杉晋作 |
いま熱中していること | ギター / 音楽理論の勉強 / 愛犬との交流 |
INTERVIEW

小学生時代はどんな子どもでしたか?

ミーハーな子供でした。流行りにはとりあえず飛びつくというか、踊らされるというか・・・。ファミコン、ラジコン、ビックリマン、少年ジャンプ、コロコロコミックの世代です。特に覚えているのは「キン肉マン」への熱中ですね。
当時はキン肉マンの世界観の中で生きていました(笑)。世の中の流行っているものに、すぐに飛びつく子どもでした。キャプテン翼が流行ればサッカーをしたり、ビックリマンチョコが流行ればシールを集めたり、ミニ四駆が流行れば部屋中工具だらけになっていたりしました。

学習については、「勉強って面白い!」と思ったことはなかったと思います。ただ、「テコの計算ができると面白い」「電車がすれ違う時に汽笛が聞こえる時間を計算するのは面白い」「壁新聞を作るために歴史の調べ物をするのは面白い」というようにかなり具体的に「解って面白い」という体験はしていました。
自分が面白いと思う分野は、「勉強」という範疇として考えていなかったのだと思います。「勉強」ではなかったから面白い。やはり学習し始めの小学生にとっては、限られた分野でもいいので、いかにしてそれを「勉強」ではなく「趣味」や「遊び」にシフトさせられるかが鍵だと思います。
低学年時は、優等生ではなかったと思います。ただ、当時退任間際のお婆ちゃん先生が僕に優等生レッテルを張ったんですよ。僕に何かとリーダー的な役割を任せてくれたり、先生が「野村君ならわかるよね」と指名したり。
最初は、「ついにこの先生ボケたか。だれか他の生徒と自分を間違えている」と思いました。しかし、不思議なもので、自分は勉強ができるのだ、みんなをまとめることができるという暗示にかかり、その評判を失わないよう頑張りました。プラス方向の勘違いですね。ポジティブ方向の思い込み。今思うとあれはその先生が生徒の能力を伸ばす方法として実践したのではないかと思います。
それ以来、今に至るまでポジティブな自己暗示が人を伸ばすということを意識しています。本来、結果が出てから自信がつくものですが、自信が先で、結果がついてくることも多々あります。自信と結果の因果関係をポジティブに取り違えるのですね。これは、実際ロジムの指導の中でも応用しています。

学校の授業以外で何かしていましたか?

水泳、剣道、そろばん、を習っていました。俗にいう学習塾は通っていませんでした。中学受験は全く予定していませんでした。中学受験をする生徒は学年に一人いるかいないかというような環境でした。ですから、学校から家に帰って、また学校に行ってサッカーやら野球やら泥警をするという毎日でした。

4~5年生になって「遊びの会」という遊びサークルを立ち上げました。例えば毎週火・水・金曜日は、そのサークルで放課後に遊ぶということをしたのです。 最初は4~5人だったのが、先生に相談してクラス公認になり、帰りの学級会で「今日は校庭でサッカーやります」と告知機会をもらえる活動になっていきました。それがクラスから、学年横断組織になっていきました。その発起人兼取りまとめ役をやっていました。それが楽しくて仕方がなかったですね。
ただ、その後「いじめ問題」が出てきました。昨今テレビで取り上げられているような陰湿なものではありませんが、誰が意図的に会に呼ばれていないといった問題でした。各クラスで学級会が持たれ、僕は発起人として設立主旨や存続への思いを証言するはめになりました・・。その後、学校の意向で遊びの会は無くなってしまい、小さな組織として細々と続きました。そこで組織を運営する楽しさと難しさを同時に学びました。「人がいっぱいいるといろんなことを人は言うんだな、大変だな」と思った強烈な記憶があります。人はそれぞれ自分の立場や気分に基づいて主張をします。一方の主張だけに立って物事を解こうとせず、互いの主張の因果と構造に意識を向けないと物事は解決に向かわないと子供ながらに感じたのを覚えています。

中学ではどうでしたか?

高校受験があるので勉強はしましたね。中学校の成績が高校受験に大きく影響するという先生の言葉を真に受けていたので、学校の勉強も大事にしました。特に記憶に残っているのは、理科の先生に、高校分野以降の内容をしつこく質問していました。授業後に根気よく指導してくれた先生にはとても感謝しています。中学の勉強ってどうしても中途半端になります。本当はとても奥行きがある分野でも、「中学生ではここまでしかやる必要ない」と指導要綱で決められており、生徒の興味と関係なく学習する天井が決められています。例えば、原子の中に「原子核」があるというのは習えば、その原子核はどういう振る舞いをしているのか疑問に思うのが当たり前です。しかし、それは高校に入ってから習うからということで、原子核という名前のみが教えられます。どこまでを勉強すればいいと勝手に決められるのがどうにも納得行かなくて、理解のある先生のところへ「なぜ?なぜ?」をぶつけに日参していました。

塾も中2の終わりぐらいから行き出しました。塾は行ってよかったと思います。世の中賢い人がたくさんいるのだなと知りました。塾でできた友達もとても好きでした。小さいころからいろんな場所、世界を持つことが好きでした。学校の自分があって、塾の自分があってと。結果的に希望の高校へ進学できました。

高校ではどうでしたでしょうか?

「自由とはなんぞや」という問をたえず浴びせられた3年間でした。変わった高校でした。入学式の日に校長先生が、「うちは浪人時代も含めて4年制の学校です。学校は生徒の受験には一切関与しません。生徒の範疇です。」と言い放つような学校でした。「高校3年間は受験なんてものを意識せずに思いっきり好きな事を学び、浪人して受験勉強を広く浅くやりなさい」と先生が本気で言っていました。
本当に学校の授業も変わったものが多くて、生物の先生は最初の授業で「人はどこから来て、どこにいくのか」と板書し、生物学が抱える使命という話を延々していました。高校1年の最初の生物の中間テストが、京大後期入試の過去問1問だけといった具合でした。先生も生徒の居眠りを注意するようなことはありませんでした。生徒が眠くなるような授業をする先生が悪いと言っていました。今思うとすごいことですよね。
「興味のあることにだけ突き詰めなさい」という教育方針は徹底していました。また、教師が生徒の意思を尊重するということも徹底していました。生徒を育てるのは制約でなく、自由であり、広大な自由を与えられて人は初めて権利と義務に思いを巡らせるのだと思います。生徒の意思を徹底的に尊重しながら、生徒の自立心を育むという方法は僕が全面的に真似たい教育方針です。

大学進学は、いつ、どのように考えていましたか?

学校全体として皆がなんとなく東大を受けるという雰囲気だったので、僕もその雰囲気に乗っかりました。通える範囲にあるし、国立で学費も安いし、受けない理由がないなと。
塾は高校3年生のときに、予備校に単科講座だけ行きました。とはいえ高校3年生の頃は楽しいことが他に多すぎて勉強まで手がまわりませんでした。バンドやバイトや、友人づきあいや、恋愛や、本を読んだり。東大しか受けなかったので、その時点で高校時代4年目を覚悟していましたね。結果はもちろん不合格でしたが、「そら落ちるわな」と納得していました。

受験のための勉強はどのようにしたのですか?

浪人の1年間は正直、本当によく勉強しました。東大入学後、みんな自分の勉強を過少に語るのですが、僕は自信を持って「すごく勉強した」と言えますね。起きている時間は、ずっと勉強していましたから。食事中もしていました。
受験勉強の方法としては、問題をやさしい順から答えて、解らなかったら調べ直すという、愚直な勉強法を繰り返していました。なんだかんだ結局基礎部分をしっかりやらないとダメだなとこの時期に人生で初めて実感しました。ついつい楽をして、総合問題を解くことで一気に分野横断して多くを学ぼうとしてしまうのですが、これはダメですね。学力がふわふわしたものになります。基礎にこそ物事の本質がある、基礎は本質に触れるためのパーツであると思っています。

自分の勉強方法が正しいかどうか解らない人に何かアドバイスはありますか?

経験主義者というと大げさですが、自分でまずやってみる、そして自分に合うか試す。トライアンドエラー信奉者になるべきです。そもそも勉強方法って人に聞いているようではダメだと思います。自分で嫌って言うほど試さないと。就職活動の時に「僕って何になったらいいですか?」って聞くのおかしいですよね。まず自分で調べようよって、そして考えようよって。それと同じようなものです。
自分にあった勉強法にたどり着いたのは本格的に大学受験勉強を開始して3カ月ごろでしょうか。いろんな不安はあったのですが、自分で不安をコントロールすることを考えていましたね。「不安」って、なんの解決にもならないですよね。
小学生のころから「不安」をコントロールしてポジティブにしていたように思います。なぜか小学生で「オプティミスト(楽観主義者という意味の英語 ※編注)」という英単語を知っていましたから。暗い顔をしていると、人はついてこないな。笑っていると人は集まってくるな、ということに気づきました。人が集まると知恵が集まります。自然とポジティブでいると物事が好転しました。

大学に入って印象に残っていることや、学んだことはありますか?

印象に残っているのはカリフォルニアへの留学経験ですね。これまでの人生で一番と言っていいくらい苦労しました。かなりの高倍率をくぐりぬけて大学のお金で留学出来たんですね。行ってみたら、何のコミュニケーションもできない。あれほど、日本で器用に立ち回っていたのに。
いかに自分が、日本で小手先のコミニュケーションをしていたのかを実感しました。同じ日本人だということだけで、中身もなく話していたことに気づき暗くなりました。
日本や、自分について、真剣に考えた経験が少なかったのですね。日本の外にいる人のほうが、日本について詳しいし、考えているのだと強く思いました。
お互いに共通のバックグラウンドがない人同士の会話は、必然自分の考えや立場の説明が内容の中心になります。しかし、それが無いわけですからコミュニケーションできません。英語力がついてきても、「あれおかしいな?話せるのに議論が続かない。」となるわけです。やはり振り返ると、話を構造的に組み立てていなかったり、キャッチボールの中の仕組みが考えられていなかったり、コミュニケーションを組み立てる力が圧倒的に欠けていました。ゼロに近かったと思います。
そんな経験を経て、多くの問題ごとは、コミュニケーションの中で、相手の話を聞き、その話の対立構造、類似構造、そして相手が何を求めているのかということをロジカルに考えられていないことが原因だと思いました。正確には、留学当時そんなことは気づかなかったので、気付きの芽を得たと言うべきです。帰国後、社会人になってから、人の気持ちを考える、人の主張の因果を考えることが、ロジカルシンキングなのだと思い至ります。「こう考えているから人はこう言う」「こういうことがあるから人はこう考える」ということを意識することがロジカルシンキングなのです。
世の中の対立やトラブルのほとんどは、相手の気持ちを考えた時に解決できるのです。ロジムで教えている「ロジカルシンキング」の本質は、「人の気持ちを考えること」だと思っています。そう考えると「思いやり」って最もロジカルシンキングなのです。

ロジカルシンキングのイメージには「思いやり」とか「あったかさ」的なものが結びつかないのですが、どうしてたどり着きましたか?

留学時代に「何かが自分に欠けている」という気付きの芽を得た後、社会人なって、業務で使うツールとしてロジカルシンキングを学習するうちに、「これだ!」と思いました。対話の構造を把握すること、自分のメッセージの構造を意識すること、メッセージの因果関係を強固に意識すること。自分に欠けていたものがそこにあると思いました。
さらに、ロジカルシンキングを心がけても解決できない問題にも多く直面します。「おかしいな、なぜだろう。なぜ論理的なやりとりで解決できないことがこうもあるのか」と考えるようになりました。よくよく考えてみれば当たり前ですよね、夫婦喧嘩や親子喧嘩、近しい知人とのトラブルは「それは整理するとこう言うことだから」では解決できませんよね。「それって要はさ・・・」「いや、要点なんてどうでもいいのよ。兎に角私は気に食わないの」という世界がそこかしこにあります。
そこで問題解決の方法として、起きていることを整理するのではなく、人の気持ちに焦点をあて、それらがどのように絡み合っているのかを徹底的に掘り下げることを考えました。結果的に、ロジカルシンキングというのは人が何を考えているのかを汲み取り、自分が何を考えているのかをわかりやすく伝える方法だという自分なりの「ロジカルシンキング定義」にいたりました。
もちろん事実の因果関係を分解整理するのも必要だし、ロジカルシンキング、この場合論理的思考って言ったほうがいいですね、論理的思考が果たす重要な部分だと思います。ただ、ファクト(事実 ※編注)だけを考えても、身の回りの、それこそ家庭や学校での問題解決にはならないのだと思います。社会人がグロービスにいって学ぶロジカルシンキングと、小学生にも教えるべきロジカルシンキングの違いです。

ロジカルシンキングは「手段」「方法」というイメージがあるのですが、もっと本質的なゴールや、本質的な相手の気持ちを理解したゴールを、ロジカルシンキングというのでしょうか。

ゴールをロジカルシンキングというわけではなく、そのゴールに到達するための方法の一つがロジカルシンキングだと思います。やはりロジカルシンキングは「thinking」なわけで、考え方や思考の「方法」であることは見失ってはいけないと思います。
先程も言いましたが、相手の気持ちをロジカルに考えることで多くの問題は解決すると思っています。解決に向かう可能性が広がるというべきでしょうか。
例えば政治家が、一見とんでもないこと話していても、彼が、どんな立場で何を言わないといけない状況なのかを考えた瞬間に、こちらの思考は変わるし、とる行動パターンは増えるのです。ワイドショーみながら「なっとらん!」と文句を言う以上の可能性が生まれます。
道端でだれかとぶつかって喧嘩になっても、その時にその人が何を考えているのかと考えた瞬間に行動の選択肢が広がります。とある人が起こす行動の理由となっているものごとや立場を考えるとことが、人の気持ちを考えるということです。
ロジカルシンキングは因果関係に光をあてる思考回路です。因果関係を考える習慣をつけることで、人の気持ちを考える習慣がつき、多くのトラブルを解決できる。楽観的かもしれませんが、ロジカルシンキンを学ぶ理由はそこにあると思います。

「相手の気持ちを考える」ロジカルシンキングにたどりつける方法(スイッチ)はあるのでしょうか。大人にスイッチをいれる方法と、子どものころから身につける方法はありますか?

まずロジカルかどうかというのは先天的なものでは決してないので、どの段階のロジカルシンキングでも慣れることで獲得はできます。ただ、その慣れを積む場が極めて少ないのです。大人にとっても子供にとっても、ロジカルに考えなくてもなんとかなってしまっている経験がとても多いのです。それこそバックグランドをまったく共有しない相手とコミニュケーションをとり、問題を解決することが日常である人は極々少数だと思います。子供にいたっては「ママ、ごはん!」で通じる世界で生きているのです。「気持ちの因果関係」に思考を巡らす必要がないので、いざ複雑な問題が起きた時に、解決が困難です。 ですから、大人も子供も、ロジカルにならなくてはいけない場をどれだけ経験できるかということに尽きると思います。擬似的な問題解決の場を学習の中や、先生とのコミュニケーションの中でいかに多く提供できるか、これがロジムがやろうとしていることです。
そういった意味では、大人もじっくり訓練する場所さえ設定できればロジカルシンキングを身につけることはできるはずです。ただ、問題なのは、1つは、すでに「非ロジカル」なコミニュケーションで「なんとかなる体験」を多く経験しているので、ロジカルであることの必要性を実感できないこと。2つ目は、仮にロジカルである必要に駆られたとしても、「年度末までにどうやって販管費をへらすか」「ベトナムでA事業部の新規事業を出すにあたって解決すべき課題は」というように極めて具体的な課題です。なかなか「気持ちのロジカルシンキング」が必要なところまではいきません。

大人に対するロジカルスイッチをつける興味はありますか?

保護者の方にはロジカルさへの意識は持ってもらいたいと思うことはあります。やはり生徒が最も長い時間かけてコミニュケートする相手は保護者の皆様ですから。影響は大きいと思います。
大人に教えることで難しいのは、表面上ロジカルに見えることが優先されて、本質的なロジカルであることの有効性までなかなか伝えきれないところです。結論を先に言えばロジカルなのか、物事を大きく分けて3つに分ければロジカルなのかと言えばそうではありません。
やはりロジカルシンキングって理屈っぽくて生意気で、攻撃的なイメージはありますよね。「うちの子はロジカルじゃなくていいから、人の気持ちをわかるようになってほしい」という声も時々聞きますし。 周囲の大人がロジカルシンキングをそのように捉えている中でも、ロジカルシンキングを習った小学生はそれを使いたがります。手法だけ教えて演習の場を用意しなければ、小学生はそれを同級生や家庭で駆使し、どこか滑稽なやりとりを生み出します。そして「理屈っぽい」のレッテルを貼られ、小学生にとってロジカルであることの有用性は芽を出すことなく封印されます。 そうならないためにも、より多くの大人がロジカルシンキングが人の気持ちを考えることに密接するものであることを知り、子供が正しくロジカルシンキングの力を伸ばせる環境を用意できたらいいなと思います。そのためにも多くのお父さん、お母さんにもロジカルシンキングってなんぞやというのは知ってもらいたいですね。

今後、野村先生がやっていきたいことはなんですか?

引き続き子どもたちが、ロジカルシンキングという作法を身につける場をたくさん提供したいと思います。議論に勝つためのロジカルシンキングではなく、日常の問題解決のため、もっと言えば主観のぶつかり合いを解きほぐすためのロジカルシンキングを伝えていきたいと思います。僕は「遊びの会」を解散させてしまいましたが、ロジムの小学生なら関係者の利害関係を解きほぐし、解決方法を見い出せるのではないでしょうか。ロジカルシンキングを用いて。
また、自分の出発点として、留学時の、バックグラウンドを共通としない人たちとのコミュニケーションロストがトラウマとしてあるので、グローバルで人と解り合える人材を育てることには寄与したいです。これまでこの国にまったく存在しなかった、英語ベースで行うコミニュケーション教室の立ち上げに興味を持っています。「それは英語塾とは違うんですか?」と思いますよね?まあそれはまたの機会に。

ロジムの好きなところはなんですか?

相手の意見や立場をきちんと把握し、その上で自分の意見をきちっと言える生徒がいることです。そしてそういった生徒が、「20年後の日本は、もしかしたら今より盛り上がってるのではないか」と思わせてくれることです。
各種統計データを見たり、まじめに日本社会の分析をすると、20年後の日本は確実に今の日本より縮小しています。人口規模だったり、経済活動だったり、およそ活気という言葉につながる物事は全てです。これは精神論ではどうにもならない確定未来と言えるでしょう。やはり暗い気持ちになりますよね。そんな中でも、「もしかして、もしかして、ひょっとすると日本はまた活気に満ちるのでは」と、こちらの鳥肌を立ててくれる生徒がロジムには時々現れます。 今我々に必要なのは成長への意欲です。ロジムの生徒の多くにはそれが見えます。成長を欲する生徒がいる、そして彼らと対峙できる。なんだかんだ自分がそれで一番成長できている気がします。

ありがとうございました!
選べる!2つの体験方法
☑︎初めて体験する生徒ばかりだから安心!
☑︎学年や目的に特化した講座が受講できる!
☑︎参加者限定キャンペーンなどおトクな講座も!
☑︎教室の雰囲気がよくわかる!
☑︎教材・テキスト代込みで無料体験!
☑︎代々木・門前仲町教室・オンライン受講OK!